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中代

武烈王の即位から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。

武烈王の即位後、唐と結んだ新羅は唐の援軍と共に金庾信に軍を率いさせ、百済に進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に白村江にて倭国の水軍を破り(白村江の戦い)、668年に高句麗を滅亡させた。この間の戦力の成長を支えたのは、伽耶が開発した鉄生産技術の取得が背景にあったものと見られる。

その後、旧百済領を占領していた唐とその支配権をめぐって対立し、670年から争ったが、676年に唐軍を半島から追い出し、旧高句麗領の南半分と合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では統一新羅時代と呼んでいる。

半島統一後、唐に対して謝罪外交をする一方、引き続き唐との小競り合いが続いたので関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。しかし、696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる[5]。732年、渤海に山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。

統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅・伽耶領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て中華風に改められている。

天武天皇の即位から780年までは、日本との関係は比較的良好であり、双方の間で遣新羅使、遣日本使が30回以上送られている。しかし、780年に渤海と新羅の間が緊張し、渤海が日本へ遣日本使を派遣すると新羅と日本の間の国交は停滞した。また、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来より新羅を属国と見なして来た日本[6]は激しい反感を持ち、その様子は、753年に遣唐使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争った事件や、恵美押勝(藤原仲麻呂)が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張(新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている)に伺える。

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国家レベルでの関係は緊張したが民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、新羅商人が大宰府および九州に来て、唐、新羅の文物を日本へ、日本の文物を新羅、唐へと運んで交易に励んだ。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。また、日本の遣唐使も帰国の際には、新羅船を利用することが多かった。

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2009年04月30日 09:53に投稿されたエントリーのページです。

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